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「努力すれば報われる」っておかしいよね

たとえ話です。

とある部族は、旱魃(かんばつ)が起きると雨乞いのための儀式を行います。
この儀式は部族に古くから伝わるもので、これまで数々の旱害から人々を救ってきました。

さて、現代人には当たり前ですが、ふつう、人間の儀式くらいで雨は降りません。
つまり、儀式は天候に何の影響も与えないはずです。

しかしながら、この部族の儀式の成功率は100%であると言います。
何故でしょうか?

答えは簡単です。
雨が降るまで儀式を続けるのです。
途中で誰かが死のうが、絶対に続けるのです。
そうすると、いつか雨が降ります。
儀式は成功します。

努力をします。
努力とは全く無関係な幸運によって、成功したとします。
努力は報われました。

努力をします。
しかし努力の量とは無関係な不運によって、成功しませんでした。
努力が足りませんでした。
もっと努力を続けて成功させるべきですね。
そうすれば、いつかきっと報われるはずです。

というわけで、「努力は報われる」というアドバイスは論理的に破綻しており、意味がありません。
「どのくらい」努力をすると、「どのように」報われるのか定量的に示さない人の言うことは聞く必要ありません。

我慢して「努力する」ことは不合理だと思う

学校の成績などで相対評価(つまり偏差値)が使われることがよくありますが、あれは成績の出現が正規分布になることを期待しているわけです。

しかしながら人の意思が働くような事柄では正規分布にならない事の方が多いということが知られており、実際に試験の成績分布は正規分布にならないそうです。
(なので相対評価は問題であると唱える人もいます)

それでは先天的な才能(もしくは物心つくまでに身につけた能力)の出現は正規分布に近似できるのでしょうか。

先天的な才能には人の意思が入る要素が(ほとんど)ありません。才能の違いはまさに多数の因子の和であり、遺伝子の誤差とも言えます。そのような仮定をすると才能は正規分布で出現することになります。
(独立な要素の和は正規分布になります。=中心極限定理)

仮に才能が正規分布に従うとしましょう。

世の中には天才的な才能を持つ人がいます。
分散±3σに収まる割合は99.73%です。
500人に一人は平均値+3σを超える才能を持つわけです。
(そして同時に平均値-3σ以下の才能を持つ人間もいるということになります)

「努力したら報われる」は結果論でしかありません。
せっかく努力をしても才能に恵まれず報われないことはよくあります。それが徒労としか言えない結果になることもあります。
人はその徒労への恐怖があるからこそ努力できないのです。

仮に自分が+2σの才能を持っているとすると、それは全体の5%未満のすぐれた才能です。きっと自分は優れていて、努力すれば報われると思えることでしょう。
しかしながら更に平均から倍も離れた+4σの分布に入る人も約0.006%存在します。
1億人の人がいたらその中に6340人もいることになります。

才能がなくても人並み以上の努力でカバーできるという主張は、努力で埋められる値の方が才能の分散σよりも十分に大きいと言っていることになります。
もちろん分野によりますが、経験的にそれは正しくありません。

「自分には才能がないから努力しない」というのは殆どの人にとって正しい選択です。
徒労への恐怖は当然の感覚であり、合理的な判断に基づくものです。

努力が徒労にならない場合、それは努力自体が楽しい場合です。結局好きであることが最大の才能なんですね。(というよりは、才能があってうまくいくことは楽しくできるんですね)

我慢してまで何かをやる必要はないと思ってます。
それは徒労になる可能性が高く、声高に努力を薦める人は無責任な人で、徒労の損害を補償してくれません。

どうせなら好きなことを努力しましょう。徒労になる心配がないので。

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